メキシコ旅行 / 国立人類学博物館2階

1000年後の未来に私たちの生活はどのように展示されているだろう。私がこうやってテキストを打っていることや、会社に行っていること、未来を感じるテクノロジーに希望を持ったその日に会社の中で繰り広げられるアナログで怠惰なやりとりにその希望を踏みにじられていること、日本人なんていう言い方でくくられていること、性を分け隔てる壁がいくつも壊され歓声があがると同時にまたそのかけらが新たな壁を作っていること、グローバル都市東京の墨田区に花咲き乱れる文化のこと、最近増えて怖いトランスフォビアのこと。「無かったことにされるのは嫌だ」から私は色々なことに手を付けている。しかし激流は抗うことができないほどで、その勢いはおさまることを知らないから、日々絶望とかすかな希望に疲れ果て、私はよく海外に行く。別の場所や時間軸にある空気の中でいつもと似たようなことを考え、ひと呼吸。

それはもう現実逃避でしかないと思うけど、別の現実に自分を流し込んでいるわけだから、考えようによっては逃避していない、と自分に言い聞かす。

もう少しだけ、長い前置きにお付き合いくださいませ。ただただ国立人類学博物館の写真はとても派手で可愛らしくキャッチーで眺めているだけであっという間に時間がたつ。せっかくリンクをクリックしたのなら早く派手な仮面や見たことのない楽器やおかしな表情の土器を見たいという気持ちもわかるのですが、そこはぐっとこらえて中南米の民族学や人類学的な博物館が重要な理由についてもう少し考えたい。

雑にまとめると2回の征服を経験している中南米は、その場所ごとに複雑な背景がある。ニュースで聞こえてくる独裁者かのような指導者は実は農民上がりで(彼なりに本当の意味での)民族を守るためにアメリカ的な資本をバックグラウンドとした政権にクーデターをはかっていたりする。入植してきた西側諸国(言い方古いかな)の人々またはそれらの二世以降からすると別の「自国意識」があって、それと民族を守ろうとする立場は対立する。それでも共生しているのだ。この複雑さのアイデンティティが、かなりの丁寧さと覚悟で提示されているのが今回訪れた国立人類学博物館をはじめとする中南米の諸Ethnographic Museumだと思っている。

もっと雑に身近に引き寄せて例える。違うドラマを見て育った世代や違うアニメを見てきた同僚は、恋愛に対する考え方や結婚に対する考え方が違う。もし彼や彼女が、そういった「違う」ものを見て育ったことを知れば付き合い方が変わってくるのではないか。こういう振る舞いが「世界観」や「倫理観」などかなり大きな範囲に広がっているのが、国立人類学博物館の2階部分、Ethnographicコーナーと捉えている私は、雑すぎるかもしれない(汗







上の写真にはNayaresの宇宙観について説明がある。Cosmovisionはほぼ全ての民族の説明項目にある。そもそもCosmovisionという捉え方や言葉自体、中南米考察から生まれたらしい。






中南米の民族誌を語る上でキリスト教化も欠かせないトピック。武力での支配も恐ろしいけれども宣教師による精神的な支配もまた恐ろしいなと思った。






刺繍や木彫り、葉で編んだりと地域や民族によってつくる手法は様々。もともとはRitualな意味で使われていたものが、民芸として観光産業になる仮定で派手になっていったという過程もある。「なんだよそれ俗っぽい。生の民族の感じじゃないじゃん」とかさ、それをどう捉えるかは自由だけど、私は生活力だと捉えてそれもまた文化だと考える。






木材がいかに重要かという展示。住居から日常の道具、儀式に用いる豪華なものまで様々なものを「木材」という1つの素材から全て作っていた。

2階のEthnography部分は場所ごとに区分けしてその地域にいる民族を紹介していた。1階はArcheology部分で、ケツアルコアトルやアステカカレンダーなどいわゆる南米の考古学的な情報量がかなりの密度で展示されていた。














とはいえ実際にその地域で生活している人々はこういう展示を見ることはないのだろうかと思うと複雑な気持ちになる。

コメント