私は車をガレージの門にこすりつけた。車は運転席ドアが開かず助手席側から入るしかないほど右側の壁近くに駐車されていた。向かう方向は右側。私は左にハンドルをきり、少しふくらませてから右にハンドルを回す。ところが、安全に出発させるには、もっと車を前に出す必要があったらしい。門をこするギリギリの距離で私はどうしようもできなくなった。心配して様子を見ていた父親にハンドルを譲った。彼もこの状況から脱するのに困難を要したが、なんとか門と車の右側との距離を空けて、車を出すことができた。父親が車の右側をチェックしに走ると、案の定、夜でもわかるほどの傷があった。思わず「これ5万や!」と彼は言った。私は本当に申し訳なく思って謝った。ドライブに出る予定だったが、もはやそんな気分じゃない。「大丈夫や、気にすんな」と父はフォローを始めた。私の肩をバンバンと叩き「この車は共有や。みんなのもんや。おまえのモノでもあるし俺のモノでもあるねん」と言い「気にせんでいいから、ほら、ドライブに行け!」と運転席に押し込み去っていった。
1時間ほどドライブをしていたと思う。5万円と具体的な数字を言われてしまったから、申し訳無さや運転技術の低下した事の情けなさが、いやにビビッドに頭を駆け巡る。「右に詰めすぎやねん」とか「運転技術にこだわるのはええねんけど、ガレージ広いねんから、そんな技術の鍛錬は無駄やん」とか言い訳も顔をのぞかせたけれども「いやいや、私の技術さえあれば回避できた」とか「落ち着いて対処できたら問題にならなかった」と今度こんな事が起こらないように、と反省に集中した。
帰宅した。今までにないくらい車庫入れは緊張した。何度もハンドルを回して、まるで若葉マークの初心者のよう。気分は落ち込んでいて、一階で炬燵に入っていた父親に「5万なんよな。ごめん。本当に申し訳ない」と言った。彼は「車は慣れの問題や。あんま運転する機会ないから仕方ない。もっと運転したらええねん」と、またフォローをした。私も大人気なかったと思う。「しばらく運転せんとくわ」とどうしようも無い事を言ってしまった。なんとなく、このまま一人で誰とも話さずに寝たかったから「寝るわ」と3回念を押して二階に上がって寝室にこもった。母親は意図を理解してくれていたようだったが、父親はそうでなかったんだと思う。
階段を上がってきた父親は寝室のふすまをノックした。「寝たい」と言っているのにも関わらず。「ひとつだけ言いたい事がある」と頑固に食い下がる。折れた私はふすまを開けて話を聞いた。概要はこうだ。傷は直さない。車は消耗品でステータスじゃない。5万円なんて数字を言ってしまってすまん。気にせんでええ。だから大丈夫やんな?今日は正月やで?と。
私が車を傷つけることで落ち込んだ理由はただ1点。自分がしてしまった事の対価が「5万円」であり、その「5万円」を稼ぐ為にどれほどの苦労が必要かを具体的にイメージできたから。だから「傷を直さない」と言われても「5万円かかる傷はそのままにしているので、その傷を見る度に私は失態を具体的に思い出す」し、普段から車を使わない私にとってピカピカで大事にされている車を消耗品と捉えるのには無理がある。
自責の念で塞ぎこんでいる人に対して、見当違いの事を言ってしまって状況を悪化させる事はよくある。もしくは、状況を好転させようとして見当違いの事を言う事も。今まで私は「見当違いの事を言ってしまう」側の人間だった。どうしたら状況は好転するんだろう、ところどころパニックになりながら、激情のままに話しあった経験がある。「見当違いの事を言われる」側になって、気持ちが伝わってこないもどかしさを知った。気持ちを察してくれという合図は、男には伝わらないんだとわかった。私からちゃんと落ち込んでいる理由を丁寧に伝える必要があったなと反省した。相手がパニックになっていく過程を見ることができた。同時に、パニック状態(意固地に意見を押し付けるしかできなくなる)になったらお互いに対策は無いんだなという事もわかった。
「傷は直さなあかんやん」と言った私に対して地団駄を踏みながら「直さへん、絶対直さへん」と言う父親は、私の目には、駄々をこねる子どもに見えた。同時に、傷をつけたくらいで落ち込んでいる私も、子どもじみた様子だっただろう。状況を打開したのは母親の「どうせみんな傷つけてる。見えないところでちょこちょこ傷残ってるねん。だからあんたが傷つけた事も特別じゃない。朝様子を見て、あまりにも目立ってたら直すよ。お金気にするんやったらちょっと出してね。おやすみ。」という一言だった。
母強し。
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