欲張りなコメントを残す / アリソン・ムーア 「Mukojima Diorama -向島ジオラマ-」

「先生、今日の子どもさん何人くらい参加するの?」

キラキラ会館で商店街関係の講演をいちどしたことのある私を、こんこん(たこ焼き屋)のお姉さんはいつも「先生」と呼ぶ。アリソン・ムーア 「Mukojima Diorama -向島ジオラマ-」の関連企画として行われた<開演前の商店街練り歩きパフォーマンス>Ghost Parade-ゴーストパレード-は17人以上の子どもが参加し、集合場所のキラキラ会館は夜なのにまるで昼のような賑やかさだった。

「商店街のライトは消さないの?せっかくの懐中電灯があんまり綺麗に見れないよ」とこんこん常連のおじさんが(お酒も入ってか)半ば強気に私に問いかけてきた。私はいつものように躱す言い方を入り口に「まあ、それでいいんじゃないですか。普段通りの明るさの中で何かに目を凝らして想像してみるのが楽しいじゃないですか。子どもはこの明るさの中でも何かを見てますよ。」と真面目に返した。おじさんは「確かに。大人は常に非日常求めてしまうなあ」と中々いい感じの会話ができた。(その後は若者とのコミュニケーション困難について10分くらい愚痴を聞いたけども。)

集まっている子どもたちや親たちを見ていると、アートプロジェクトやクリエイティブな活動でよく見るご家族だけでなく京島に古くから住んでいる様子の方々もいて幅広さが垣間見える。手伝っているスタッフはアート関係者だけではなく近所の喫茶店のマスターや商店街の会長さんもいる。「久しぶりにしっかりと組み立てられた地域アートプロジェクトを見た気がします」と思わず隣にいた知人にこぼしてしまった。

パレードの後、戦前から続く長屋が取り壊された跡地の空き地で4mの巨大スクリーンでAllison Mooreさんの映像作品を見る。使われている素材の豊富さに圧倒される。リサーチ期間、制作期間は短いと聞いていたが、その中でこれほどまでの素材と人との関係をまとめあげていくのは、端的に「すごい」。アーティストの素晴らしさだけでなく運営の努力も想像できて、体験として重みのあるものになったと思う。

雨さえ降らなければ。

非常に冷めた気持ちでパレードと作品の鑑賞を思い返している。これはあの時間、上映が始まったくらいに雨が激しくなり、そう、その雨が体だけでなく心まで冷やしたからだろうと言い訳をする。



Allison Mooreさんはカナダ出身のアーティスト。多面スクリーンやプロジェクションマッピングの映像を通じてその空間や対象(地域など)を捉え直すことができる作品やプロジェクトを行っている。繊細で細かいモノ(生き物やそうでないものなども)が互いに関係しあいながら、何かしらの意味や物語を伝えようとするおとぎ話のような映像が素敵な作家で、今回のプロジェクトでもどのように京島(上映場所となる京島長屋を中心とした)を捉えるのかが楽しみだった。公共の場で行われるプロジェクトにも多数参加しており、サイトスペシフィックな(その場所に特有な、もしくはその場所で意味を成す)作品が得意そうだから期待も高まる。

通りから見ると少し斜めに傾いた形で設置されたスクリーンに上映された映像は、かつてそこにあった京島長屋の正面から始まる。当初、作家は8mのスクリーンを用意してほしい、と言っていたと聞いた。かつてあった長屋を1:1のサイズで見せたかったのかもしれない。

上映場所である京島長屋跡地は特別意味を持つ。展示協力にクレジットされている「京島長屋文化連絡会」のサイトから詳細が伝わるが、とにかくただただ「保全」や「保護(取り壊しに対する抵抗)」ではないプロジェクトが行われている場所であることが特徴だ。連絡会は京島長屋の生活における意味を問い続け、居住している人々だけでなく大家や開発会社とも協議する積極的な姿勢を持っている。

2018年の39アートin向島を中心に、この場所では、数えきれないほどの展示や会議などが行われてきた。取り壊しが完了した後もサイトや活動は継続し、常に未来に目を向けている場所でもある。

そんな跡地で作家は何をするのだろうかと思っていた。下に展示のステートメントを引用し読み直してみる。

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Mukojima Dioramaは、 向島にある解体された長屋群の跡地のために制作する、映像と音のライブパフォーマンスである。 失われた建物のポートレイトによって、過去と現在の共鳴を描き、 都市がどのように変容し、変化していくのかをフィクションと現実の狭間で表現する。 映し出される建物は、ゴーストとして、地面も風景もない、自身の世界の中に孤立し、 暗い空っぽの空間を漂っているようにして現れ、窓やドアの中には、繰り返される人々の日常が垣間見える。 建物の物語は、そこに住む人の生活であり、住む人の生活は建物の表層に現れる。 この作品は、向島の歴史を祝福するものである。
地域住民が作品と触れ合う時、古い建物が蘇り、歴史を語り出す。
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映像は30分くらいのもの。2ループあったらしいが、当日は雨がひどくて1ループで上映は終了した。建物のポートレイト、扉や窓がCGで開くとそこに京島地域の人々の生活が流れている。終わり際5分には、満開の桜が重ねられ、子どもたちの動きの影をグリーンバックに建物のポートレイトが見える。

ポートレイトとして使われていた建物は京島長屋だけでなかった。通り一本向こうにあるキラキラ橘商店街のお店たち、八広にあるグランド湯という銭湯も使われていた。

京島長屋には職工さんも多く住んでいる。お風呂のない長屋から八広にあるグランド湯に通っていた人もいただろう。キラキラ橘商店街は職工さんたちの生活必需品が揃っていたに違いない。かつての生活圏を彷彿とさせる映像だ。

絵画のような平面のポートレイト(過去)の先にかつての生活や現住民の生活の映像が重ねられる。過去と現在を対比させながら今を捉え直す物語を示そうとしているのだろう。しかし長屋が取り壊されてまだ一年ほどしか経っていない。Ghostというにはまだ新鮮な記憶が残っていそうではないか。早すぎやしないか。

取り壊された跡地はかなり広く、小学校の運動場くらい。それだけの広さの生活密度が全くの無になるわけだから京島長屋のことを考えている人だけでなく近隣の人や、それこそ観光で訪れた人にもインパクトを与えるであろうことは、まあ想像できる。取り壊しから一年ほどで想像上の京島長屋、京島における生活を再上映し体験させる必要は、確かにあったのかもしれない。商店街の協力、地域の若者やご家族の協力、パレードを見守る人々の様子、映像にあわせた音楽(を演奏しているのは京島で活動している若者だ)は、2〜3週間の準備でできるプロジェクトの粋を超えていた。

ということはだ。この地域における京島長屋跡地との関わりはAllison Mooreさんの作品制作や鑑賞を通過点として、また次に/未来につながっていくことになるだろう。ゴーストパレードに参加した子どもたち、京島のこれからの生活をつくる子どもたちも作品の鑑賞者だ。

そこまで想定できたであろう映像が、1年のノスタルジーを補完するような記録の蓄積と祝福にとどまるのではなく、これから先1年、いや1年とはいわず数年もの間続く何かしらの原動力になるようなものであったのかどうか。





ここまでで「Mukojima Diorama」の説明に「向島」ではなく「京島」という言葉を使っていることが気になる人もいるかもしれない。「八広」にこだわる理由もなかなか伝わらないかもしれない。墨田区の各地域を指す「向島」「京島」「八広」は地域住民にとって全く違う意味を持つ。大阪でいうなら北浜と長堀と北新地と空堀と西成を、西成でのイベントで同じ大阪として扱われているようなものだと思ってもらっていい。全く違う意味や歴史や物語を持つこれら地名や地域の素材を混在させていることに、正直言うと違和感を覚えた。しかし京島長屋で生活していた人々のことを知り想像すると、様々な理由で区切られている地名や機能が、生活という糊でつながっていく。

さて、この展示は10年続く39アートin向島のいち企画だ。39アートin向島の開催エリアは京島も向島も八広も鐘ヶ淵も文花も含むが「向島」を掲げる。向島エリアから始まったこのプロジェクトにとって「向島」はただ地図上のエリアを指すだけでなく、アートプロジェクトの歴史、プロジェクトに関わってきた生活者の物語や意図といった多くの意味を含む。inではなくfromと言い換えてもいいかもしれない。ここにもまた様々な理由で区切られている地名が、活動の歴史でつながっていく。

話を戻すが、京島長屋跡地で上映された「Mukojima Diorama」のタイトルは京島ではなく向島が使われている。向島は京島を包んでよかったのだろうか。

…2012年のことを思い返している。

私は墨東まち見世の事務局をしていた。特集記事のために来ていたソトコトの編集者とかなり密に内容のすり合わせをしていた時のことだ。当時はまだスカイツリー開業1年目ということもあり、編集者はスカイツリーから墨東エリアを俯瞰した写真をメインビジュアルにした記事を予定していた。しかし地域の様々な活動の話を大量に聞いた彼は企画内容を変更。生活者の目線、つまり人の目の高さから街を撮影したビジュアルをメインにつかう記事に変更したのだ。私は彼を心底信頼している。

同じ時期にNHKの取材も入っていた。今は鳥取で芸術祭の運営をしている方がディレクターとして打ち合わせに来た。色々と説明を受けた彼女は、イベントだけでなく事務局会議や企画会議にまで何度も参加した。そうして墨東まち見世に参加している企画者のことを丁寧に知った上で撮影に臨んだのだ。私は彼女を心底信頼している。

墨東まち見世では100日プロジェクトというアーティスト招聘プログラムをやっていた。100日の間アーティストは地域に関わり続けて作品を発表するというものだ。私は谷山恭子さんと新里碧さんのプロジェクトを見てきた。お二人の作品は地域にまだ残っていて、様々なところで目にするし様々な人に影響を残している。谷山さんの作品でもあるアートどら焼きは私は毎年ことあるごとに購入している。谷山さんから焼印を納品された和菓子屋の埼玉屋さんのアートどら焼きは名物だ。2年ほど前に埼玉屋さんでは包装紙をリニューアルしたのだが、なんとその包装紙に「美術」という言葉が新たに追加された。

墨田区では90年代から建物の外で美術が行われ、地域住民とアートの関係はもはや当たり前の存在として語られている。楽の会やアサヒ・アート・フェスティバル、向島芸術計画、墨東まち見世、39アートin向島とおそらく東京都/日本国内でもかなり先進的な出来事が起きているエリアであることは疑いようがない。

京島で、特に京島長屋跡で行われたプロジェクトで向島というタイトルはよかったのだろうか、という点にこだわるのは細かすぎると思われるかもしれない。ただ、様々な経験をしている地域だからこそ、この小さなひっかかりは何か大きな意味を持ちそうな気がしてならない。



<開演前の商店街練り歩きパフォーマンス>Ghost Parade-ゴーストパレード-に話を少し戻す。たこ焼き屋「こんこん」にいたおじさんの心配は実は全くの杞憂に終わった。というのも子どもたちやパレードに同行していた人たちの興味はAllison Mooreさんのプロジェクターの映像、建物にプロジェクションされた浴衣を着た幽霊に釘付けだった。

スタッフに手渡したミルクせんべいは子どもたちの手に渡っただろうか。たぶん冷たい雨のせいで子どもたちはミルクせんべいを食べる前に帰ってしまったかもしれない。全部雨のせいだ。私がこんなに冷めた気持ちで文章を書くことになってしまったのも、全部雨のせいだ。

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