自分の愛するものを語るために必要な言語 / 「京島文化祭 × 江戸長屋滞在展」のシンポジウム

「作る」ために移り住んだ地域に魅せられて、地域で何かを作るのではなく地域を作ることに意識を向けた若者が、アーティストインレジデンス(以下AIR)をきっかけにアーティストや美術作品と、地域で生きる人々が日々作る何かとの違いに興味を持った。地域、よりも少し個人的な範囲に近いけど若者が愛するそれを紹介したい、そして興味あるその「違い」を知るためのグループ展として、今回の「京島文化祭x江戸長屋滞在制作展」が位置づけられていると私は受け取った。

28年続く京島文化祭はお母さんたちの習い事の発表会からはじまっている。若者はその作品たちの魅力の虜になっていたと思う。AIRは特定の滞在期間の中でアーティストが作品をつくったりリサーチをしたり発表する。場所との時間軸を持ち出し、お母さんたちや地域に暮らす人々(その場所に住むアーティストも含む)の時間を「滞在期間」とし、AIRの滞在期間になぞらえて「横並びに」展示していた。

とまあそんな時間軸はさておき、若者が41人も直接声をかけて42の展示にこぎつけたそのつながりの強さは素晴らしい。彼の友人や彼が大事にしているひとたちがつくる「作品」たちはこの京島という地域の普段の姿を見せてくれていた。


個人的には平屋会場で展示されていた漫画や音楽(が誘い込むお風呂も)が好み。知人を連れていたんだけどあの会場で展示されていた人は、ブックアーティストさんとか、色々な意味で推しまくった。

若者が魅せられて愛している場所や人を見せる企画としてならとてもピュアで愛すべきものだったのに。シンポジウムで語られてしまったことが全て台無しにしてしまった。



京島文化祭に参加してたアーティストから展示全体についての質問があった。若者は展示の企画者だ。参加者が知りたくなるのはわかる。若者はそこで「あえて「評価」するなら、点数をつけるなら、優劣をつけるなら、やっぱり80歳のお母さんの般若心経です」と語りを始めた。その地域で暮らす時間や文化祭を何年も続けるモチベーションを持ち出しながら「完全に『自己満足』の『作品』なんです。やはりそれはアーティストの『作品』とは決定的に異なるとわかりました」と言った。

若者は時々「メリット」や「価値」といった言葉を口にする。sheepstudioに滞在していた台湾のアーティストのプロジェクト対して「これはどのような『メリット』を地域に与えますか?」という質問をしていたのが思い出される。

それが何のために存在しているのか、誰のためのどんな価値があるのか、それを考えることはとても大事なのは理解できる。私は若者に次の2つの視点を持ってもらいたいと思う。



個人は自分が生きるために何かをつくり続ける。誰かのためではなく自分のために。生きがいとして。生きるためにつくる。それは自己満足という言葉でくくれない。

「誰かに見せるために書いてるわけじゃないからさ」とシンポジウムの場にいた80歳のおばあさんの一言を、自己満足として捉えることもまあできるだろうが、書のもつ力や写経がどんな意味を持つかを考えれば日々を豊かに誠実に生きるために必要な所作であることも想像できる。おばあさんは子どもが描く絵の素晴らしさを説明するなかで「邪心のない線はわたしには描けない」と言っていた。おばあさんは80年も生きていくなかでこびりついてしまうさまざまな記憶や関係の中で生きている。写経というものがそういう生活の重みを安らげていることは想像できるんじゃないか。

それを「自己満足」という一言でまとめるのは尊敬を欠く。

2つ目。何のために存在しているのか、誰のためにどんな価値があるのか。この"何の"や"誰の"にとてつもない範囲が含まれることがある。人間それ自体や歴史や社会や世界が含まれることもある。美術作品、アーティスト、"アートワールド"はそういった範囲を含む。

子どもの頃、マンホールの周りに囲いができて人が入ったり出たりしているのを見て、なんか遊んでる人がいる、汚いかっこの人がいると思っていても大人になって生活に下水やら何やらインフラが必要なだと知ったらその行為が必要だとわかる。

知らないことや範囲の広いことを想像したり考えることは正直難しい。だからどうしても「よくわからないけどなんかすごい」となる事がある。「よくわからない」は人によっては居心地が悪い。だからわかる方を好んで、よくわからないものは見ようともしない。それは「よくわからない」ことをしている人に失礼じゃないかと思う。

この2つの視点を同時に持つのは難しいかもしれない。今回の企画はそれの入り口になりえたのにそうならなかったことが悲しい。

「滞在期間」という切り口を企画をまとめることに利用するのではなく、考えるきっかけにしてくれたらよかったのにと思う。



上の文章の中「」(会話内は『』)でくくった言葉は企画内の文言や若者の言葉を使うときに用いた。私は上の文章で、あえて若者が用いた言葉に私が普段理解に用いる重みを置いて書いた。

彼は上に書いた風に考えてはいないかもしれない。もっとピュアに単純に好き嫌いや快不快の話をしていただけかもしれない。

もしかしたら私が知らない言葉の意味を用いて話していたかもしれない。私は若者の素直さが好きだし京島に必要な人だと知っているしそう確信している。だからこそもっと自分が好きで愛する地域の人について知ってほしいと思う。語る言葉をもっと持ってほしいと思う。特に「よくわからない」美術についても。

京島だけでなく墨田区にもかなり深くつながりやゆかりのあるアーティストがシンポジウムに登壇したり参加作家として質問を投げかけたりしていた。そして京島にスペースを持つインディペンデントキュレーターは、私が上に書いたようなことをもっと鋭くはっきりと意見として口に出してくれた。彼らの表情や首の角度や肩の様子が辛かった。

せめてシンポジウムを企画したりおそらく登壇者の選定にも関わってらっしゃったアート関係者の方がそのあたりをケアしてくれたらと思ったんだけどシンポジウム内ではそれが無かったのが残念だ。

シンポジウムのタイトルが「墨田STYLE」だったのが終わりには「京島STYLE」と口にされていたのも複雑な思いを残してしまった。

とにかく、展示は楽しめた。若者の京島への愛は強く感じた。その上で言わなきゃならないと思った、本当の意味で多様な考えや価値観に触れる必要があるなと。

※これはシンポジウムを受けての投稿です。展示は(私なりの受け止め方を通じて)とても素晴らしく楽しめたものでした。



■展示企画名
「京島文化祭 × 江戸長屋滞在展」

・シンポジウム
「墨田STYLE for AIRシンポジウム」
日時:11月18日 18:00〜20:00 
場所:sheepstudio(シープスタジオ)墨田区京島3-20-9
パネリスト:Eat and Art Taro (アーティスト)・大西由莉(アーティスト、「カメハウス」滞在作家)・高田洋三(写真家、sheepstudio主宰)・TEFU(東京藝術大学院有志6名)+AAN(「藝術英語塾」有志2名)・村田達彦(遊工房アートスペース・ディレクター)・後藤大輝(「江戸長屋滞在制作展」実行委員長)
ナビゲーター:嘉藤笑子(AANディレクター)

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