香港旅行記

思い出せないくらい後になってから書こうとする。こと細かな詳細から始めようか、より大きな…何を「感じた」かについてから書こうか迷います。



覚えているのは雨が降っていたということ。その雨は日本で経験するよりも大粒で密度も大きく、つまり豪雨だったということ。かけこんだコンビニエンスストアで購入した銀色とえんじ色の折り畳み傘は帰国してからもずっと使っていること。雨の中かけこんだバスの窓から眺めた、表にある豪華なビル群とは全く違う、バラック小屋が立ち並ぶエリアが見えたこと。薬茶がとても苦く美味しく無かったこと。雨の日曜日に集うマレー系の女性たちが歩道橋にゴザを敷いて賑やかに歌を歌ったり写真を撮ったりスマホで映画を見ている横を、普通に歩く様子のこと。アーティストランスペースのこと。Maryさんの英語も広東語も時々漏らす日本語も綺麗だったこと。特にGaの音が印象的だったこと。






ご飯のことや人の表情のこともそうだけれど、私にとって特に印象的だったのは香港におけるアーティストとアクティヴィストの境目がほぼないことです。

この場合のアーティストは現代美術作家という言い方をした方が確かかもしれません。今を生きるための術が表現活動にある人、という方がより近いでしょう。そして「生きる」という動詞の直前に「**として」という所属を示す形容詞がつく。私は日本人で、日本という国(国土や歴史、言語)について幸か不幸か悩んだことがありません。日本人として東京で生きるために必要なことをしています、と何の躊躇もなく言うことができていました。

日本以外に目を向けると、そもそも自分の国というものの定義が日々変化している国があることに気付きます。

中国と香港、中国と台湾の関係から。クルディスタンという「クルド人の地/国」を意味する言葉から想起される様々な出来事から。日本で育った在日2〜3世代目の手記から。何を感じるでしょう。

幸運にも日本に住んでいると、自分がどの国のパスポートを持っていて、どの土地に立っていて、何人で、何語を話しているか、その選択について何の疑問を持たずに安心して現状を考えることができています。しかしこの安心を支える根拠がどこにあるのか、それがいかに脆弱かー脆弱というのは歴史が浅いかであったり何か力を持つ文脈によって無理やりに安心させられているのかー他国に旅行すると思い知らされます。

(そういえばイスラエルとパレスチナも同様の問題を抱えていますね。MUNICHというスピルバーグ監督の映画を見たことがありますか。ミュンヘンオリンピックの際に発生したイスラエル選手団人質事件から繋がる様々なテロ行為に関する物語です。イスラエルという国で生きる人々。イスラエルという国、パレスチナという国、それぞれが国家を欲する物語です。ぜひ見てみてください。)




香港島にあるオルタナティヴスペースで開催されていた、とあるアーティストのトークに足を運んだ時のことです。そこでは数ヶ月かけて行われたリサーチプロジェクトの報告が行われていて、盛り上がる後半には「中国からの独立」が当たり前の話題として語られていました。当たり前の選択として独立がある、その選択に向けて自分たちはどのような表現を用いていくのか、その場では何の疑問も提示されることなく話が進んでいたことに驚きました。

独立が当然の選択。

実はその前日に訪れた美術館で見た展示では、それとは違う選択肢の提示がアーティストSouth Hoから行われていました。香港製造と書かれた煉瓦の壁を自分を取り巻く四方に配置するが、その壁は脆く、彼自身の動きを制限させてしまう。このパフォーマンスは、メインランドと香港が抱える矛盾を体現します。メインランドをただただ侵略者として見ることの不自由さ、彼にとって香港人であること中国本土の人間であるということ二重のアイデンティティによって考えさせられることが多いのでしょう。これはつまり同じような境遇の世代が増えているということ。そしてこの選択のオルタナティヴは香港における重要なポジションを担いつつあるようでした。


なぜトークの空気に驚いたかというと彼の作品を見ていたからです。しかしそれほどまでに強い、ある世代における香港人というアイデンティティ。強烈です。

そして芸術とは、やはり、人が個人として生きるために必要な表現方法なのだということを痛烈に感じた香港でした。



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