カニバットは普通の人へ。百人の危ない美女は、百人の危ない労働者へ。


―あなた方はサイコパスでありながらただ女性であるというだけであらゆる反社会性の道を閉ざされていた。―本文引用


女装の私が「説教師カニバットと百人の危ない美女」を読みました。下品残虐すぎて文字起こせない程の内容で、ただ非現実かというとそうではなく現実を丁寧に詳細に描写すると滑稽になるのかという発見を与えてくれ、そしてただ「女である」事の受難に集約されてしまう。

プロローグもインデックスもエピローグもあとがきもない小説。一人称が女流作家だから最初はエッセイなのかと勘違いしてしまいます。ブスである自分の容貌について、多少の滑稽さを加えながら丁寧に記述していて面白い。ところがファックスが2台あって、はき出される紙は作家の肩を押すほどだとか、幽霊が出るだとか、カニバットがどうとか、はてはゾンビと来た。No37からNo100までナンバリングされた女ゾンビ、つまり幽霊がファックスにしたためた主人公への罵詈雑言。しかし内容はただただ冷静に善意で結婚を促し、結婚の素晴らしさを説き、いかに自分たち(女ゾンビ)が結婚するために努力してきたかを書いているのです。あっけらかんとしたリズムで読みやすいのですが、ただ…ただ…内容が…人を殺しただとか、殺して切り取った腕を自分の身体に縫いつけるだとか、糞尿がどうとか、もう、なんというかサイコパス甚だしい!

「こんな女いるものか!」と叫びたくなるのですが、どこか拭えない「いや、もしかしたら、前に立っている女の人・・・も?」という現実味。私は自分の中の女性性を自覚しているし、他人からも女性性を確認されています。しかし他の女性の女性性について深堀りをしたことがないらしいのです。拭えない不安がそれを証明していました…いやちょっと待って。それは単に小説が女ゾンビを題材にしていて、中心テーマが「女」であるからそう感じているだけで、男性に対しても同じ事を、つまり「その人がサイコパスかもしれない不安」を感じているじゃない? 今日だって、マスクをした短髪で黒いダウンジャケットを着た男の人に足を思いきり踏まれました。人身事故で電車が思ったように動かないからイライラしている気持ちもなんとなくわかるけれども、私の顔を見たとたんに急にいきりたって、思い切り踏みにじって去っていくなんて、何考えてるんだかよくわからない。

ほら、「その人がサイコパスかもしれない不安」は男性女性関係ないです。ただ、女性だというだけで「まさかそんな?!」意外性が強まるのもおかしな話。まあ、笙野頼子さんが「カニバット〜」を書かれた時代から13年たって「サイコ」や「狂人」に性別が関係なくなってきました。意見する女性に主体性が宿り可視化された。もう、「サイコ」や「狂人」における男女の区別どころか「サイコ」や「狂人」と「普通の〜」の区別も曖昧になってきていて、そこに「普通の〜」が消滅して、カニバット(小説に出てきます)やドク郎(これも小説に出てきます)のような作られた(小説でわかります)存在でのみ「普通の〜」が存在しているのかもしれないし、事実そうなんじゃないか。

「ブス」という現実を加える事で超現実のフリをし、ギリギリで辛辣な現実を滑稽に記述する小説でした。100人の美女は、今、100人の労働者に姿を変えて、階段やエスカレーターやエレベーターに犇めき合っている。ファックスはTwitterやFacebookに姿を変える。テレビから姿を消した中流のイメージは私たちが殺害した。さて、労働者ゾンビはその代わりを探す………なんて事をこの作品を読んだ人の多くが想像して書くんだろうなあ。

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